ラッコから考える自然保護のかたち
※この記事は一時的に設置されています。後日、他のストーリーにあるように、撮影の旅とともに写真が加えられた物語としてまとめられます。
——グレイシャーベイ国立公園の現場から——
アラスカ南東部に広がるグレイシャーベイ国立公園は、氷河が刻んだ入江とフィヨルド、豊かな海洋生態系が織りなす、まさに生きた地質と生態の博物館である。そこでは現在進行形で、目で見てわかる地球温暖化が進行しているとわかる、環境であるとも言える。この地に、近年急速にその存在感を高めている動物がいる。ラッコは、北太平洋に生息する海洋哺乳類であり、海の生態系を動的に変化させるキーストーン種(その地域の生態系の環のなかで、その種がいなくなると生態系が瞬く間にこわれてゆくとされる要の種のこと)として知られている。
この湾で観察されるラッコの動向は、単なる個体数の増加という現象にとどまらず、保護された種が環境にどう影響を与えるか、また人間と自然がいかに共存できるかという問いを浮かび上がらせている。
ラッコの復活――絶滅危機からの回帰
ラッコは19世紀後半、毛皮交易の激化によりその多くが捕獲され、アラスカからカリフォルニアにかけての広範な分布域の大部分で絶滅寸前にまで追い込まれた。アラスカ州では1972年の「海洋哺乳類保護法」(Marine Mammal Protection Act)施行以降、州政府や連邦政府によっていくつかの湾に再導入が行われ、グレイシャーベイもその対象地域のひとつであった。1990年代後半より、湾内で再定着したラッコの数は増加に転じ、現在では生態系における主要な捕食者としての役割を取り戻しつつある。
最新調査による個体数と分布の把握
2022年、米国魚類野生生物局(USFWS)、国立公園局(NPS)、地質調査所(USGS)によって、グレイシャーベイを含むアラスカ南東部全域で空中写真による広域ラッコ調査が実施された。AI画像認識技術も用いながら正確な個体検出が行われ、推定個体数は22,359頭(95%ベイズ信頼区間:19,595~25,290)と算出された。
特に注目すべきは、グレイシャーベイ湾内の分布重心が、ここ2~3年で明らかに南部、すなわちハッチンズ湾(Hutchins Bay)周辺へと移動している点である。この地域では、1平方キロメートルあたり20頭以上という高密度での分布が確認され、湾内でも最もラッコ密度の高いホットスポットとなっている。
ラッコの食性とその変化
ラッコは断熱用の脂肪を持たない代わりに、1日に体重の約25%にも相当する餌を摂取する必要がある。体重40kgの個体であれば、毎日およそ10kg分の無脊椎動物を必要とする。その主要な捕食対象は、ウニ、ムール貝、カニ、ホッキガイ、チトン類などの底生無脊椎動物である。
湾に再定着したラッコたちは、最初はサイズの大きなウニや二枚貝などを集中的に捕食し、それらの資源が局所的に減少すると、次第に小型の餌種や稚貝へと食性を変化させていく。この「柔軟な捕食戦略」は、ラッコが限られた餌資源を最大限に活用して繁栄できる仕組みである一方で、餌資源の消耗を加速させ、生態系の構成そのものに変化を及ぼすことにもつながる。
昆布の森とラッコの役割
ウニは昆布の根をかじって引き抜くことにより「ハゲ場」と呼ばれる生物多様性の乏しい海底を形成するが、ラッコはこのウニを捕食することで、昆布の成長を促進する。結果として昆布の森(Kelp Forest)が再生され、魚類や無脊椎動物の生息場所を提供し、沿岸生態系の回復に寄与する。この関係性は生態学で「トロフィック・カスケード(食物連鎖の連鎖的変化)」と呼ばれ、ラッコはその上位に位置する捕食者として、生態系全体に広範な影響を与える存在である。
しかし、グレイシャーベイのようにラッコ密度が極端に高まると、今度はラッコ自身による過度な捕食が問題となる。餌資源の枯渇が進めば、次第にラッコの健康状態や繁殖成功率も低下し、個体数の自然調整が始まる。つまり、ラッコは生態系の回復者であると同時に、一定以上ではシステムを揺るがす存在にもなり得る。
保護と共存のはざまで
ラッコの復活は、必ずしも全ての関係者に歓迎されているわけではない。沿岸部で貝類漁業を生業とするコミュニティにとって、ラッコは漁業資源を競合する「強力な捕食者」である。実際、ホッキガイやアワビ、ウニなどの個体数減少は、地域経済に打撃を与える可能性がある。
このように、保護が成功した動物がもたらす生態系変化と、人間活動との摩擦は避けられない。だがそれこそが、「自然保護とは何か」という本質的な問いに向き合う契機となる。保護とは単なる「現状維持」ではなく、「自然の動態性」を受け入れながら、その変化とどう向き合うかを考えるプロセスである。
未来に向けて――「見ること」から始まる保護
私はグレイシャーベイでラッコの群れを観察しながら、そこに広がる生命の循環を実感した。彼らが海底をひっくり返して餌を探す行動も、それによって小動物が動き、魚が集まる連鎖も、すべてが動的に絡み合ったひとつの織物のようだった。
ラッコが戻ってきたこの地で、私たちは「保護」とは何か、「共存」とはどうあるべきかを、あらためて問い直す必要がある。生態系の構成員としてのラッコをどう位置づけるのか。人間との摩擦をどう調整するのか。そして、自然と人間の関係をどう再構築していくのか――
写真という行為は、観察であり、記録であり、対話である。ラッコという被写体を通して、その背後にある自然の複雑さと豊かさに目を向けることが、自然保護の第一歩なのかもしれない。